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Music People vol.16 助安 由吉

ミュージックエイト創業者 助安由吉の挨拶

「ミュージックエイトの創業50周年を迎えて」前文


 本来であれば、50周年を迎えるご挨拶は、株式会社ミュージックエイトの媒体上で全国のバンドの皆様に直接お礼を申し上げるべきだと考えておりました。しかし、ミュージックエイト現社長より「ミュージックエイトから離れてくれ」との要請があり、不本意ではありますが私、助安由吉は2015年6月1日をもってミュージックエイトより退任することになりました。そのため、これまでご愛顧いただいた皆さまに対してミュージックエイトの創業者がミュージックエイトの媒体でお礼をお伝えすることのできないという異常事態に陥り、皆様を混乱させてしまいましたことをお詫び申し上げます。

 ミュージックエイトは私が1965年の創業から30年間、日本の音楽教育と吹奏楽界のことを思い、寝食を忘れて基礎作りに奔走してきました。その後、前社長(現ロケットミュージック社長)が16年間、私の創業理念を発展させることに尽力してくれました。しかし4年前に現社長が就任し、突然経営方針が変わり、「創業者と創業理念が必要ではなくなったので離れてくれ」と退任要請を受ける結果になりました。現在ミュージックエイト社内では、私が創業時から抱いてきた核とも言える社是・社訓が取り外されています。社訓は以下の文章で締めくくられていました。

「どこよりも情熱を込めてバンド業界の発展のために全力を尽くします」

 ミュージックエイトには現在も私が経営していた頃から吹奏楽界の発展を支えてくれた素晴らしいスタッフが働いてくれています。現社長によって取り外されはしましたが、核とも言える意志を継いだスタッフが今でもミュージックエイトを支えてくれていると私は信じています。そして経営理念こそ変わりましたが、現社長はそのスタッフたちを解雇させることなく立派に会社を存続させています。どうか今までどおりミュージックエイトをご愛顧くださいますよう心よりお願い申し上げます。

 創業50周年のご挨拶は、ミュージックエイトの前社長及びミュージックエイト前取締役2人を迎えて創業したロケットミュージック株式会社の媒体よりさせて頂きます。このようなご挨拶を他社の媒体で行うことは通例ではありえないことですが、私のこれまでの感謝の気持ちを皆様にお伝えする手段が他にありませんでしたので、同じように吹奏楽界の発展を強く願っている同社の紙面をお借りさせていただきました。今回は私からのご挨拶に加えて、ささやかではありますが、ご希望される方には記念品を差し上げたいと考えております。

 これまで同様、音楽教育と吹奏楽界の発展のために尽力させて頂きます。私の意志を受け継いだロケットミュージック株式会社も併せましてどうぞよろしくお願い申し上げます。


ミュージックエイト創業50周年を迎えて

 私は、1957年から3年問、陸上自衛隊東部方面音楽隊に所属し、楽譜係をしていましたが、入手できる楽譜はクラシックばかり。公演会場は変わっても内容は代わり映えせず、特に地方公演では演奏が終わってもパラパラと拍手がある程度で、せっかく会場に足を運んでくださった方もあまり楽しんでいらっしゃらないことは、肌で感じていました。
 ちょうどその頃、ベギ一葉山の「南国土佐を後にして」が流行。発売後1年で100万枚売り上げたほど空前の大ヒットを記録していました。
 この曲を吹奏楽で演奏したら、お客さまが喜んでくださるのではないか。ふと思いついた私は、思い立ったが吉日と、編曲の経験はあまりありませんでしたが、四苦八苦しながらも、吹奏楽のアレンジを完成させました。当時の緒方隊長も「おもしろい、すぐにやってみようと言ってくださり、次の演奏会でアンコール曲として演奏することになりました。
 そして当日、音楽隊のステージで初めての流行歌を演奏、隊長のタクトが止まった瞬間、会場が割れんばかりの拍手に包まれたのです。あまりの大拍手に隊員一同、とまどいながらも、客席と一緒に喜びの渦に巻きこまれていました。
 この楽譜は、当時実力ナンバーワンと言われていた陸上自衛隊の中央音楽隊をはじめ、他の音楽隊にも貸し出され、日本のあちらこちらで演奏されました。

 26歳で除隊後、NHKサービスセンターの職員になりましたが、「南国土佐を後にして」の経験を励みに、吹奏楽のオリジナル作品を3曲、アレンジ作品を2曲書きあげました。
 その後、服部良一先生と克久先生のもとで写譜者兼弟子のような仕事をさせていただき、30歳で独立、楽譜出版社のミュージックエイトを設立しました。社名は良一先生が考えてくださいました。
 それが1965年、今から50年前のことです。
 「南国土佐を後にして」の大拍手の記憶に後押しされた私は、クラシック一辺倒の吹奏楽界を変えたいと意欲満々でした。

 が、最初はまったく売れませんでした。吹奏楽界の重鎮の皆さんが、吹奏楽で歌謡曲を演奏するなど言語道断とこぞって大反対。
 しかし、あきらめるわけにはいきません。当時の一流アレンジャーの手を借りながら、歌謡曲や演歌、ポピュラーの吹奏楽楽譜をつくりつづけました。
 ミュージックエイトが歌謡曲の吹奏楽楽譜を売っているという事実が全国に知られるようになると、少しずつ売れ始めました。なかには、こういう楽譜がほしかったんだと、泣かんばかりに喜んで注文してくださった先生もいらっしゃいました。

 しかし、売り上げがなんとか安定してきた矢先、吹奏楽の現場からこんなご意見をいただいたのです。
 ミュージックエイトの楽譜は、演奏レベルが高すぎて、中学生や高校生には演奏できない。買ってもそのままでは使えないので、ほとんどの先生が易しく書きかえて演奏している…。
 私はハッとしました。そして、即座に、当時出版していた百数十曲の楽譜をすべて絶版にいたしました。あることを思い出したからです。

 私も、音楽隊でホルンを吹いていました。難しい曲に挑戦し、見事に演奏できたときの感動も知っています。苦手な箇所は必死に個人練習を繰り返し、ステージでミスひとつなく吹ききった嬉しさは格別でした。
 しかし、最も感動したのは、ホルン吹き3人でパート練習をしていたときに、3人の音が完全にハモった、その一瞬でした。「僕はこれでもういつ死んでもいい」と本当に思いました。
 この一瞬の感動こそが、ミュージックエイトの原点であることを思い出したのです。

 練習時間をあまりとれないバンドでも、個人練習を繰り返さなくても、あるいは音楽の才能がまるでなくても、少し練習を重ねれば合奏できる楽譜を提供する。より多くの子どもたちに、ハモるという感動の一瞬を体験してもらいたい。
 これをミュージックエイトの基本方針といたしました。
 歌謡曲やポップス、さらには演歌まで、楽しく演奏し、聴く人を笑顔にする吹奏楽を子どもたちに体験してもらいたい! そして、豊かな心をつくり、仲間を大切に思う気持ちを育み、社会に出てからも有意義な人生を歩んでもらいたい…。

 しかし、易しく演奏ができることを第一の目的とした編曲など、名アレンジャーとして名前が売れている人に対しては無理な注文でした。
 今も編曲に携わっている山下国俊は、当時国立音大の学生で、唯一の社内アレンジャーでした。最初は他のアレンジャーと同様「編曲者のプライドはどうなるんだ」と私の意見を聞き入れなかった彼が、ようやく私の考えを理解し、易しいアレンジをしてくれるようになったときから、楽譜の売り上げが急速に伸び始めました。私の思いに間違いはなかったと、少し安心いたしました。

 出版曲数が格段に増えてきたこともあり、社内アレンジャーの募集をすることになりました。芸大の卒業生に決まりかけていたとき、応募してきたのが国立音大卒の小島里美です。当時はまだ女性のアレンジャーなどいない時代でしたが、彼女の熱意にひかれ、採用に踏み切りました。彼女も私の方針に従い、易しいアレンジを心がけてくれました。
 本来なら、グレードなど気にせず、思う存分腕をふるいたいはずです。それを、大きな制約のもと、周囲の評判も気に留めず、ふつうならしなくてすむ苦労を重ねながら、ずっとアレンジしつづけてくれました。
 この山下と小島がいたからこそ、ミュージックエイトは50年の歴史を重ねることができたし、今の吹奏楽界があると、私は思っています。アレンジャーのプライドをある意味捨てたうえで、ベストな仕事を心がけてくれるこの2人こそ、弊社にとって真の功労者だと、今も頭の下がる思いです。

 小学生用の吹奏楽楽譜の制作に踏み切ったのは創業から10年経った頃でした。
 身体の小さな小学生が管楽器を吹くのは健康に悪いという考えが一般的だった頃、それは絶対に違うと、自分で買った楽器を子どもたちに与え、指導していたのが、今は亡き岩崎弘先生です。
 「小学校のこの時代に管楽器を吹くことこそ、健康を害するどころか、健康な身体づくりと心づくりに欠かせないものである」という先生の考えがいかに正しかったかは、今の吹奏楽界が何よりの証明です。
 岩崎弘先生とご一緒に作ったイワサキアンサンブルの楽譜をはじめとし、今ではさまざまなシリーズの小学生用楽譜をお届けできるようになりました。天国でもタクトをふっていらっしゃるであろう岩崎先生のおかげです。ありがとうございます。

 長い歴史の中、何度か危機はありましたが、最大のピンチは今から30年以上も前の出来事でしょうか。
 楽譜のコピー問題や出版にあたっての証紙問題で、窮地に陥ったことがあります。なんとか解決策を模索し、関係者にご相談したのですがその中の実力者と言われる方の言葉は「ミュージックエイトは黙って倒産して下さい」と言うものでした。私はすぐに覚悟を決め、「はい、ミュージックエイトは倒産します」と答えて、全国のバンドの皆さんにあて、倒産を知らせるはがきを投函しました。噂はたちまち業界内に広がり、問屋さんや楽器店さんからの返品で社屋の前に山ができました。
 しかし、とある2人の方が「情操教育を担当しているミュージックエイトを潰してはならない」と中心になって運動してくださり、倒産を回避することができました。今はもう問題等も解決していますが、当時のことを思い出すたび、ありがたくて涙の出る思いです。

 その後経営も安定、陣頭指揮を後継者に譲って約20年がたちました。
 最近の大きな出来事といえば、ロケットミュージック(旧エイトカンパニィ)の分社化でしょう。幅広いユーザーの希望に応えるため、ロケットミュージックは独立しました。2社とも、全国のバンドの皆さまのために粉骨砕身、努力を重ねるしかありません。

 弊社の楽譜が上級クラスのバンドの皆さんに評判が悪いのは、よくわかっています。「ミュージックエイトの楽譜は面白くない」「M8の楽譜はダサイ」など、どれも当然のご意見です。
 しかし、「より多くの人が演奏しやすい楽譜をつくる」という私の理想は変わりません。つまるところ、私が音楽隊にいた当時に経験した、あの一瞬の感動を、全国のバンドの皆さんと分かちあいたい、その思いだけで突っ走ってきた50年かもしれません。

 最後になりますが、これまでミュージックエイトを育ててくださったバンドの皆さまには、心からの感謝しかありません。本当に本当にありがとうございます。これからもどうぞよろしくお願い致します。


助安 由吉【すけやす・よしきち】
1935年、北海道生まれ。陸上自衛隊東部方面音楽隊、NHKサービスセンターに転職後、服部良一・克久親子の弟子兼写譜者等を経験。1965年に楽譜の出版社(株)ミュージックエイトを設立。1981年には書籍の出版社(株)エイト社を設立。心づくりのためのメッセージを冊子や講演会にて配信。2001年に書画を書き始め、後に出会った綾部經雲斎氏の竹筆を用いた現在の書画スタイルを確立。2002年心の美術館(熱海)、2011年ギャラリー天(山中湖)、2014年にはギャラリー天(鎌倉)をオープン(現在いずれも閉館中)。作品製作に力を注いでいる。

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