Music People Vol.86 佐藤 学
数多くの人との出会い
●吹奏楽好きなただのオタクです。
中3の時、学校を休んで普門館に聴きに行った吹奏楽コンクール全国大会・高等学校の部、全てが衝撃でした。それからほぼ毎年、普門館詣。現在は、大学の部・職場一般の部鑑賞とそれに伴う旅行を楽しみにしているただの吹奏楽オタクです。
●団塊ジュニア世代。バブル崩壊、そして就職氷河期へ。
地方の教員養成大学出身で中学校教員を目指していましたが、不勉強なために採用試験では不合格。そのうちなんとかなるかと考えているうちに就職氷河期が超寒冷化へ。現在では考えられないほどの倍率となり、合格できない年月が積み重なります。
2023年10⽉YCC県⺠⽂化ホール(⼭梨県⽴県⺠⽂化ホール)
●講師時代。小・中・高の職種全制覇と運動部顧問の経験が今に繋がる。
11年間で中学校を10校、高校を1校、小学校を1校勤務しました。吹奏楽部顧問を務めさせていただいたり、顧問ではないものの吹奏楽部に関わることを認めていただけた学校もありますが、ほとんどの学校では運動部の顧問をしました。剣道部、ソフトテニス部、バドミントン部、卓球部、バスケットボール部。各運動部の実力ある先生や指導者の方との出会いがあり、チーム育成についてのノウハウを身につける期間になりました。すべて私の転勤後になりますが、万年、地区で最下位の剣道部が地区中総体で1勝したり、バドミントン部では新人大会個人戦で東日本大会出場、1年生中心の卓球部が新人大会県大会でベスト8になりました。技術指導力がなくても生徒一人ひとりの特徴をよく観察し生徒にフィードバックすること、そして技術指導のできる人材を見つけてくることで(陸自や地域の剣道教室に行って指導をお願いしたり、バドミントンでは元国体選手のお母さんに指導をお願いしたり、卓球ではスポーツ店の店員さんに指導をお願いしたこともありました)、活動が充実し生徒の技術力の向上に繋げました。そして生徒達に自信が付くとドンドン活動が回るようになりました。一方、練習試合や合同練習では生徒指導や技術指導が上手な先生の立ち振る舞いや声がけの仕方を観察して吸収しようと頑張りました。
●講師ならではのこと。無職期間がたまにありました。そんなときは出歩記・・・今に繋がる出会いがいくつか。
7月で勤務終了だった年がありました。この年の夏は約2週間の一人旅に出ました。お盆で帰省中の兄の車に乗り兄の住んでいた足利へ。ほぼ青春18きっぷの旅です。足利→阿蘇(阿蘇山に行ってみたかった)→別府(温泉に入りたかった)→福岡(九州大会・高校を聴く。爆音サウンドに驚愕する。福工大高の琴Soloの元禄にもビックリ。高2の片岡寛晶氏(福岡一高)の演奏を聴く)→高速バスで別府へ→フェリーで四国へ→松山(四国大会を聴く)→尼崎(関西大会・高校を聴く。夜行列車で到着だったので、朝7:00から当日券売場に並ぶ)→大津(関西大会・中学校を聴く)→京都(観光)→横浜(全日本高等学校吹奏楽大会 in 横浜を聴く)→東京(全国大会3年連続出場団体による全日本吹奏楽連盟特別演奏会を聴く)→帰宅。
この旅では、尼崎アルカイックホールで隣の席に座っていた方と意気投合、そこから20年来の友人となります。この兵庫のFさん(現 島根)とは、ちょくちょく吹奏楽コンクール全国大会の大学の部・職場一般の部を一緒に鑑賞しています。数年後にはこのF氏をハブに鳥取のHさん(故人)や神戸グループの皆様とも出会います。また、ずいぶん後からわかったことですが、オオサカシオンWOの事務局のSさんは、上記の別府→松山→尼崎の行程が全く一緒で、どうも同じ船、同じ夜行列車に乗っていた?!(笑)ことが判明。こんなマニアな方々との出会いがこの頃から増えていきます。
●東北薬科大学吹奏楽部の指揮者
後輩が東北薬科大学(現 東北医科薬科大学)に進学し、吹奏楽コンクールに出たいので、指揮者をお願いします!!と頼まれ、コンクール時期のみ5年間指揮者を務めました。大学生はヒマ!というイメージでしたが、薬剤師を目指す学生は、講義や実習が終わって18時過ぎ、練習は19時〜21時の2時間できればいいかなという忙しい皆さんでした。初心者の方も含め10数人でしたが、コンクールに出たいという気持ちがヒシヒシと伝わってくるメンバーでした。演奏レベルのバラツキが大きく、練習時間が限られているうえアンバランスな小編成バンドをどうやってまとめていくか試行錯誤した経験は、今、振り返ると貴重な経験をさせてもらえたと感謝してます。5年連続で銅賞でしたが、ある年、審査員の一人が前年に全国大会に出場した大学と同点を付けてくれました。打ち上げでは銅賞だったことよりもたった一人の審査員から高く評価してもらえたことに狂喜乱舞でした。
●東北工業大学高校(現 仙台城南高校)勤務。
小学校勤務を1年経験した後、ご縁があって現勤務校へ。1年間の非常勤を経て採用、吹奏楽部顧問になりました。吹奏楽部は長らくほぼ休止状態だったため1年生5名で再出発という形でした。2年目14名で吹奏楽コンクール地区大会に出場し代表になりましたが、地区大会の翌日、本校生徒から新型インフルエンザを発症した生徒が出たために2週間の学校閉鎖!! 県大会の3日前から活動を再開し県大会へ出場。3年目は部員が22名まで増えましたが、残念ながら県大会には出場できず。その代わりに全国高等学校吹奏楽第4回ジャズコンテスト全国大会に出場。東京での練習会場では東京ブラススタイルの皆さんにサプライズで登場していただきました。生徒のアングリした表情は今でも忘れられません(笑笑) 3学年揃ったことで第1回演奏会を開こうと練習をしていた3.11。東日本大震災が… 当時の部長が福島県北の新地町、海岸から100mも離れていない自宅から通っていました。6Fにある音楽室から見える太平洋(名取市閖上方面)は、横一文字の白い線が視界一杯に広がり田園地帯を飲み込みながら少しずつ迫ってくるものでした。幸い部長の家族は地震直後に内陸部の小学校へ避難したため、全員無事でした。
2011年4月 福島県新地町
●東日本大震災。全国からの支援に感謝。金沢JAZZ STREETと動くコンサート(名古屋)での招待演奏。人の繋がりに感謝。
2011年3月11日、東日本大震災が発生しました。震災後は大混乱。そんな中、本校は宮城県内の学校としては唯一、予定通りに始業式・入学式を行った学校でした。しばらくはJRや地下鉄が不通にため自転車での遠距離通学者がほとんどでした。部活動は再開しましたが、部長をはじめとする数名の部員が避難所生活だったり、家族の仕事の都合で早く帰宅せざるを得ない部員がいました。吹奏楽コンクールを実施すると決まった5月。毎日のようにミーティングの日々が続きます。コンクールに出場するか、しないか・・・結論は「出場しない」。理由は「現状では満足いく演奏ができないから」というものでした。当初はなんとかして出場する方向にしたかったのですが、最終的には部員達の意思を尊重することにしました。心の中がポッカリ空いた状態が数日・・・ そんなある日、一本での電話が。「金沢ジャズストリートに出演してください」、実行委員長の栗田和敏氏からでした。私からは正直に「まともに練習できていないので、お恥ずかしい演奏しか聴かせられません」とお断りを示唆するお話をしましたが、「どんな状態でもどんな演奏でも構わないので、金沢ジャズストリートを目標にして練習することや金沢の街でジャズに触れることが、生徒の励みになってほしいのです」と、更なる温かい励ましの言葉をいただきました。
2011年9月 金沢・尾山神社
7月には東京ブラススタイルの皆さんが「ブラスタ・ファイト・ツアー」の一環として本校を訪問、学校でライブを開いていただきました。東京ブラスタのプロデューサーの須山眞志氏とメンバーには感謝が尽きません。9月の金沢ジャズストリート2011では、系列の東北工業大学と合同で東京ブラススタイルのレパートリーをJR金沢駅前や尾山神社境内で演奏してきました。初冬には東京ブラススタイルとの関わりで愛知県吹奏楽連盟から「動くコンサート」への出演依頼が来ました。2月の「動くコンサート」で東京ブラスタと共演、私達の演奏する「あの夏へ」にあわせて、動コンに参加した2,000人ほどの皆さんがサイリウムの光で演出してくれた幻想的なシーンは感無量でした。私達を暖かく向かい入れてくださった愛知の皆様と、その取りまとめをしていただいた愛知県吹連の清水猛雄先生、サポートをしていただいた名古屋南高と東邦高の皆さんにも感謝しております。
2012年2月 名古屋・日本ガイシホール
●2名からの再スタート。
動くコンサートが終わり、3年生が引退。残った部員は2名でした。部員数が5名以上にならなければ休部扱いという生徒会規定があったので、部員確定の4月末月まではこれで吹奏楽部は終わりかもしれないと不安な日々が続きました。なんとか休部を避けることができたものの部員不足のため吹奏楽コンクール出場を3年間休止しました。
2011年10⽉ 《ミュージックエイト吹奏楽団の皆さんと》東北工業大学高
●ジャズ・マジックコンボとの出会い・・・元祖 フレキシブル!
2011年10月、ミュージックエイト吹奏楽団が石巻での震災復興支援コンサートを行うために来校し本校で練習しました。これは地元のサンリツ楽器の松浦正敏社長(現 会長)が若い頃にミュージックエイトで勤務していたこと、そして松浦社長のお子さんが本校卒業生だったご縁があったからでした。松浦社長からの「学校、貸して?」の電話に即「OK」と返事。せっかくの機会でしたのでM8吹奏楽団の皆さんと合同練習もさせていただいたうえ、同行したミュージックエイトの助安伴之社長からはジャズ・マジックコンボの楽譜を寄贈していただきました。部員1桁体制になってからは、このマジックコンボの楽譜を使った演奏がメインとなり、練習しながらベストな楽器配置を探っていくということが日常になりました。その後、ブレーン、ロケットミュージック、ミュージックエイト、ウインズスコアなどの各出版社からフレキシブル楽譜が出版されるようになり、海外の出版社も含め、フレキシブル楽譜にたくさん取り組むようになりました。楽器の組み合わせを試行錯誤する時間や手間はかかるのですが、フレキシブル楽譜に取り組むことで楽器配置(オーケストレーション)について私だけでなく生徒もこだわりがもてるようになりました。自分のバンドのサウンドを効率よく発揮できる楽器の組み合わせは何だろうか?と考えるようになり、振り返ってみればサウンドに対する意識が年々高くなっていきました。近年は「タイム・マネジメント」という言葉で効率化を求められていますが、試行錯誤の時間を大切にすることで、確実に何か新しいスキルが身に付くと思います。カレー作りをスパイス選びからはじめるような感覚がフレキシブル楽譜による演奏ではないでしょうか? 自分達だけのサウンドをつくることができるはずです。
●普門館の使用停止
2013年に普門館が全面的に使用できないことが確定。『目指せ! 普門館!!』を合い言葉に中学・高校時代を過ごし、教員の道を選んだ原動力の元、「あの黒床のステージに立ちたい!!」が心の中で崩れていきました。この時、もう”普門館”=”大編成”にこだわる必要はないと考えるようになりました。
●「他校の10年先の活動をしてます(自虐)」
コンクールに復帰し2014年は14名、2015年は17名、2016年は10名で出場。今では小編成でも20名以下での演奏は珍しくないですが、当時は少ない方から数えて2番目くらいでした。他校の先生からは「この人数でよくやっているよね」と声を掛けられると、「他校の10年先の活動をしてます!」と自虐的に返答していました(笑)
普門館の解体を機に自分の考えが変わったことやフレキシブル楽曲を使用するようになったことで、新しい形の吹奏楽活動を考えるようになりました。作曲家の片岡寛晶氏と出会ったのもこの頃でした。
●みやぎ小編成バンド楽曲研修会
2015年2月、生徒と西関東バンドクリニックに参加しました(参加を認めていただいた主管の山梨県吹連に感謝です)。会場でブレーン社のS氏(仙台出身。中高生の頃から私を知っていたそう)に声を掛けられました。ブレーン社は吹奏楽出版では大手でしたので、営業?と勘ぐりましたが、話を聞くと「少子化が進むことで吹奏楽が衰退していくことが予想されるので、それに対して出版社として吹奏楽の裾野を広げることは何かできないか? 後藤洋の「合奏の〜」シリーズやフレキシブル楽曲の普及を全国各地でできませんかね?」。なかなかアツイ想いが伝わってきました。「では仙台で演奏会形式の研修会を企画してみましょう!!」いうことに。宮城県内で協力を得られた大河原商業高(O先生)、仙台工業高(K先生)、聖和学園高(C先生)と仙台城南高の4校、講師に片岡寛晶氏をお招きし、2016年5月に第1回研修会を聖和学園高サールナートホールで開催しました。内容は「合奏の花」、「フレキシブル・コラール集」、フレキシブル楽曲数曲でした。特に講座『生徒1人、先生1人。2人からできるコラール練習』では、1声を楽器で演奏、残りの3声がハーモニー・ディレクターで演奏する、合奏!? を披露するという究極の小編成の活動を提案しました。またフレキシブル三重奏「マカリッシュ・ソフィア」(片岡寛晶)を極小編成用に拡張し演奏するなどの試みも実践しました。第2回では『新入部員を育てる方法』〜マルチグレード(仮称)楽譜を用いて〜と題し、出版直後の「ショート・ストーリーズ」(江原大介)、「I, My, Me, Mine!!」(鹿野草平)を取り上げました。新入部員役の生徒にはいつも演奏している自分の楽器とは異なる楽器を研修会の1週間前から取り組んでもらい、当日は立派な新入部員役を果たしてくれました。またフレキシブル楽譜の「糸」の実践報告(執筆:大河原商業高・O先生)がロケットミュージック社のカタログにも掲載されました。第4回では作曲家の田村修平氏を講師に招き、演奏を交えながら「エンジェル・イン・ザ・ダーク」の解説をしていただいたり、フレキシブル8重奏「森の勇者たち」を約70名で合同演奏するなどの実験的な試みを行いました。このようにこの研修会は年を経る毎に内容の幅と活動の幅が少しずつ広くなっていきました。
少子化問題の象徴である2018年問題だけでなく、ブラック部活、新型コロナウイルス、働き方改革、地域移行をどう乗り切るか等々、新たな課題が現れてきています。演奏団体、作曲者、出版社の三者でwin-winの三角関係を築きながら、世界に誇れる日本の吹奏楽文化を存続していくためには今後どうしていけばよいかを考えています。
●生徒と出歩記・・・ネットワークの広がり、指導方法・練習方法の研究
震災後、残りの人生を楽しもうと考え、意欲的に県外に出歩くようになりました。東関東大会、西関東大会、関西大会など。東北とは異なる演奏文化を知ることができました。2015年2月、東北吹奏楽指導者講習会で講師を務めていた水戸女子高の木村達也先生(現 日本ウェルネス高指導者)と出会います。生徒と共に何度か水戸を訪れ、見学や合同練習を通して、言葉がけによる協調・協力体制を高めながらチームを育成する方法を学びました。2017年3月、茨城・伊奈高の神保星先生(現 守谷高)と出会います。音楽感、練習方法、サウンド等々、あらゆるベクトルが170°くらい異なっていました。”水彩画の伊奈”、”油絵の城南”、水と油をどう混合するか、お互いにいいとこ取りをする合同練習と合同演奏会を開き、切磋琢磨しました。
2015年7月に片岡寛晶氏とはじめて出会います(連絡先を知るまでかなり苦労しましたが、実はJ社の打楽器アンサンブルの楽譜のスコアにメールアドレスが掲載されたました・・(汗)〈注:現在ではこのメアドは不通だそうです〉)。8月にコンクール関西大会を聴きに奈良に行きます。FaceBookで片岡氏が大阪にいることを知り連絡を取ると、なんと奈良まで迎えに来てくれました。近鉄奈良駅の向かいの道路から飛び跳ねながら存在をアピールする片岡氏の姿は忘れられません(笑) 同行されていたのが、大阪・石切中の寺沢彰彦先生でした。2016年12月、修学旅行で関西を訪れます。自主研修中に寺澤先生に呼び出され、生駒の焼肉店でランチを食べているときに「あんたも片岡四天王の一人や!」と勝手に告げられました(笑笑笑) どうも片岡マニアが他に2名もいるらしく、一度、集合しよう!!とのことでした。2017年3月、神奈川・中山中の定期演奏会で、中山中の当時の顧問である大胡田忠敏先生、石川・北星中の木下典子先生の”片岡四天王”+片岡氏本人の5名が集合、初会合(飲み会)をもちました。その後、会員?が増え、今では”チーム片岡”となりました(チームの皆様のご紹介は割愛したします。お許しを m( _ _ )m)。「人は人を呼ぶ」と私の師匠のA氏はよく言います。外に出歩くようになってから人脈が広がりました。
一方、2014年、2015年、2017年に秋山紀夫先生による基礎合奏の講習を受講し、基礎合奏の方針を転換します。2014年は吹奏楽コンクール出場に復帰した年で部員は14名でした。従来のサウンド・トレーング重視の基礎合奏では、人数不足による音の欠如(しかも欠席者が出れば尚更)のため練習が成立しませんでした。秋山先生は日本の吹奏楽黎明期に単身、欧米に渡り、当時の最先端の指導法を日本に導入した方です(詳しくは「Music People Vol.6 秋山紀夫」をご覧ください:https://www.gakufu.co.jp/blogs/music-people/vol6)。その指導法を楽譜化したものの1つにミュージックエイト社の「毎日の10分間ウォームアップ」(秋山紀夫)があります。これは全体のサウンドではなく、個々の奏者のサウンドに焦点をあてたものでした。これに加え2016年の西関東バンドクリニックで埼玉・大相模中の練習公開で使用していたKjos社の「Foundation For Superior Performance」(Jeff King & Richard Williams著)を知り、生徒一人ひとりのサウンドの豊かさを追求するウォームアップ合奏の楽譜を考え自分で作成し実践してみることにしました。2019年からは上述の水戸の木村先生の個人指導「個人チェック」のシステムを参考に各講習会で学んだことと様々な教則本の情報を取り入れながら整理して、自作の楽器別のデイリートレーニングも作成し楽譜化しました。どちらの楽譜も使いながら少しずつブラッシュ・アップしています。
2019年2月にも西関東バンドクリニックに参加。甲府城跡で富士山を眺めながら2人しかいない2年生と東日本学校吹奏楽大会へ出場することを本気で考えます(奇しくも2023年ではこの甲府の地で2回目の東日本学校吹奏楽大会に出場できました)。
2019年10⽉ ⾦沢歌劇座
●再び、金沢の地へ
震災から8年後の2019年。初出場の東日本学校吹奏楽大会で再び金沢に地を訪れ、北國新聞社のご尽力で金沢ジャズストリート2011プロデューサーの栗田氏との再会を果たしました。感無量!! この時ほど、音楽のもつ力、人の縁の素晴らしさを実感することはありませんでした。正直、震災後の数年間はいつでも吹奏楽部をたたむことはできました。しかしながら当時の部員達と常にできることは何かをお互いに問いながら活動を続けてきました。そしてこれはとてつもなく大切なことだったことに改めて気が付きました!! 諦めるのは簡単、でも目の前にいる部員はどうする? メンバーは多いことに越したことはないが、それにこだわる必要はない。ない物ねだりするのではなく、自分達のできることを進めていこう!
●コロナ下での活動・・・できることから取り組みました。
2020年3月、新型コロナウイルス感染症のため全国で一斉休校がはじまります。吹奏楽コンクールの中止が発表され、途方に暮れる日々がしばらく続きます。やっと学校活動が再開となっても『感染症拡大防止』のため、特に『3密』回避が求められました。飛沫を発生させる吹奏楽や合唱は「危険」と判断され、コロナ禍前の活動に戻すことは困難でした。そんな中、西南学院大学の須藤伊知郎先生が「新型コロナウイルス(COVID-19)パンデミック期間中のオーケストラ演奏業務に対する共同声明」というドイツの研究論文の翻訳をSNSで発表されました。直ぐさま須藤先生に連絡をとり、中高生でも理解できるように意訳することとその2次使用の許諾のお願いをしたところ、快諾。それだけでなくドイツでの別な研究論文の情報もいくつか頂きました。須藤先生から提供された情報を根拠として6月1日に「吹奏楽部の活動再開における留意点〜新型コロナウイルスの感染拡大防止のための個人的見解〜」[消毒編]をSNSで公開したところ、ツイッターでトレンド入り、話題になって全国各所から問い合わせをいただきました。その後、国内外で研究が進み、科学的根拠に基づいた感染症対応が広まるようになりました。
「そのうち誰かやってくれるだろう」という希望的楽観をもつよりは、「とりあえず自分でやってしまおう」という私の性格がいい方向に結びついたのだと思います。
●持続可能な吹奏楽活動とは? ゆるやかなダウンサイジングを目指して。
吹奏楽はテレビ番組の影響もあってか、平成初期に比べ「華やか」「熱血」「青春」という一面がクローズ・アップされてきました。認知度が上がることは良いことです。一方、取り上げられるのは大所帯の全国の有力校ばかり。しかし現実は全国各地でバンドの少人数化が増加しています。世界に誇ることができた日本の吹奏楽文化。これを次世代にどう繋いでいくかを考えたとき、どうしても時間、お金、人材、環境等々の刹那的な部分に目がいきがちです。少子化も働き方改革も地域移行も避けられないことでしょう。しかしここで即時的に「0」か「100」を決めるのではなく、全国の吹奏楽を愛好する者達が知恵を出し合って、ゆっくりと時間をかけ、その学校や地域に合った活動を探っていく時間が必要ではないでしょうか? 活動のゆるやかなダウンサイジングを目指すことで、吹奏楽活動が持続可能になると考えています。
●数多の人との出会い
これまで自分を育ててくれた恩師と仲間。紹介しきれないくらいの皆様がいます。「人は宝」とはよく言ったものです。
2024年3月のみやぎ小編成バンド楽曲研修会では、ロケットミュージックの助安博之社長に出版業という立場で参加していただき、アツイ想いを語っていただきました。夜の懇親会ではそんな彼に口説かれ、これを執筆することになりました。
私は吹奏楽好きなただのオタクです。しかし、これまでの出会いに対する感謝の気持ちを次世代へ繋ぐ何かで返していきたいです。
2024年3月 《みやぎ小編成バンド楽曲研修会後の懇親会(2次会)》宝島。
佐藤 学【さとう・まなぶ】 宮城県出身。中学生からトロンボーンを始め、中高大で吹奏楽コンクール東北大会に出場。恩師の齋藤洋子氏と佐藤公一郎氏、故・荒井弘氏を始めとする宮城県内の吹奏楽指導者から薫陶を受ける。大学卒業後、宮城県内の小学校・中学校・高校の講師を経て、2008年4月より東北工業大学高等学校(現・仙台城南高等学校)吹奏楽部顧問を務める。合奏法を荒井富雄氏に師事。日本吹奏楽指導者協会(JBA)会員。みやぎ小編成バンド楽曲研修会事務局長。 |