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Music People Vol.6 秋山 紀夫

マエストロ・フェネルの遺したもの

フレデリック・フェネル(1914年7月2日〜2004年12月7日)
 彼の偉大な生涯とその功績の全てを書くことはほとんど不可能に思われる。しかし読者の皆様に彼のことをより深く知ってもらうために、ここでその偉大な生涯を5つの時期に分けて考えてみようと思う。

第1期 誕生からイーストマン音楽学校入学(1914〜1932)
第2期 イーストマン音楽学校時代(1933〜1961)
第3期 ミネアポリス交響楽団時代(1962〜1965)
第4期 マイアミ大学時代(1965〜1980)
第5期 佼成ウインドオーケストラとの約20年(1981〜2004)

第1期
 フェネルはオハイオ州クリーヴランドで鉄鋼業に携わる家庭で誕生。生後6ヶ月にして母ジュルダが逝去。フェネルと5歳年上の姉マージョリー、幼い2人の子供を抱えた父親は後に母の妹キャサリンと再婚する。南北戦争時代、父や母方の家系は伝統的な鼓笛隊を編成していた。その中で父親はファイフ(横笛)を演奏し、独立記念日等の祝日にパレードを行っていた。そのため、フェネル自身も鼓笛隊に親しみ、7歳で小太鼓の練習を始め、後に打楽器を専攻する。
 小学生になったフェネルは小学校の小オーケストラで打楽器を担当。ジョン・アダムス高校ではバンド部員としてコンクールに参加し、全米3位に入賞。また、マーチングバンドのドラムメジャーも兼任する。1930年夏、ラジオでインターラーケン音楽キャンプのナショナル・ハイスクール・オーケストラの演奏を聴き感動し、翌31年父に頼んでインターラーケンのナショナル音楽キャンプに参加し、打楽器の本格的なレッスンを受けるようになった。また、同時期、多くの指揮者を見ることで指揮をすることにも興味を持つ。ドラムメジャーのレッスンを受けるために、大学生のコースに入り、マーク・ハインズレー(1905〜1999)の指導を受けた。ハインズレーが属していたキャンプの大学バンドの指揮者、イリノイ大学のオースチン・ハーディング(1880〜1958)にイリノイ大学への進学も勧められる。しかしゲスト・コンダクターとしてキャンプに来ていたイーストマン音楽学校学長のハワード・ハンソンと出会い、彼のロマンチック・シンフォニーの打楽器奏者として演奏に加わることになる。この経験と学校の内容を知った彼は、最終的にイーストマン音楽学校に進学を決めた。この時期(1932年)、キャンプに参加したウイリアム・ラディック・ジュニアー(ラディック・ドラム会社の創立者の息子で後に会社を継いだ)と出会い、生涯の友人となる。

第2期
 イーストマン音楽学校に入学後、フェネルはロチェスター大学のフットボールコーチと出会い、そのマーチングバンドのドラムメジャーとなる。マーチングバンドの指導をする他方で、1935年にはこのバンドを基礎としたコンサートバンドを編成した。更に音楽学校と共同で、イーストマン音楽学校のコンサートバンドとして発展させた。
 1937年、音楽学校を打楽器専攻で卒業。大学院に進み指揮研究員となったフェネルは全米教育協会のオーディションに合格。1938年2月10日に留学が決定。モーツァルテウム管弦楽団のあるオーストリア、ザルツブルグに向かう。直後の3月12日にナチス・ドイツがオーストリアを併合。ヨーロッパ全域に戦争の影が漂う。このことでアメリカ大使館は帰国勧告を発令。フェネルはその年の夏には帰国を余儀なくされた。9月から大学院に戻り、修士論文「H.パーセルからL.Vベートーヴェンまでの管弦楽における、ケトルドラム(ティンパニー)の発展」を書き上げ、1939年春、修士号を取得した。1940年にはイーストマン音楽学校シンフォニックバンドの正指揮者となった。
 1943年、第二次世界大戦中はサンディゴ海軍基地将校クラブで吹奏楽講義を行う。1954年、楽器メーカーであるルブラン社より、この講義をまとめた『タイム・アンド・ザ・ウインズ』が出版された(日本語版は佼成出版社。現在は絶版)。終戦後、イーストマン音楽学校に戻る。軍楽隊から復員してきた学生たちが、それまでの吹奏楽に不満を持っていたり、吹奏楽そのものに興味を持たなかったことから新しい吹奏楽のあり方を模索し始める。1951年11月、肝炎で数週間入院したフェネルは、その病床でストラヴィンスキーの「管楽器のための交響曲(1920)」「ピアノと管楽器のための協奏曲(1923〜24)」の管楽器パートがシングル奏者であることをヒントに、「ウインド・アンサンブル」の構想を思いつき見舞いに訪れたハワード・ハンソンに提案した。翌年ハンソンの許可を得て待望の「イーストマン・ウインド・アンサンブル」を編成。1回目の練習は1952年9月20日に始まる。最初の演奏会は翌年2月8日に開催された。フェネルはこの日を『ウインド・アンサンブルの誕生日』としている。同年5月にはその後の大ヒット、マーキュリー・レコードシリーズの第一弾「アメリカン・コンサートバンド・マスターピース」を録音。後に10年に渡って続くこのシリーズは、その後のウインド・アンサンブルの模範となる。また、この録音によりウインド・アンサンブルの存在意義を提示し、アメリカをはじめヨーロッパの優れた管楽器のための音楽を紹介したことは彼の一番の功績といえる。実際、このシリーズは現在でも世界のウインド・アンサンブル活動に影響を与え続けている。この偉大さは計り知れないものである。このシリーズがフェネルの名声と地位を不動のものとした。

第3期
 1962年、フェネルはイーストマン音楽学校を退職し、ミネアポリス交響楽団の副指揮者に就任した。しかし、当時の正指揮者で9歳年下のスタニスワフ・スクロヴァチェフスキー(1923〜)(2007年から2年間読売日本交響楽団第8代常任指揮者を務めた)と馬が合わず、不遇であった。

第4期
 1965年、フェネルの不遇を知ったマイアミ大学音楽学部長ウィリアム・リー博士はフェネルをウインド・アンサンブルの指揮者として迎える。その後、1980年5月まで15年間勤務することになる。1970年6月末から7月初頭にかけて、大阪万国博覧会にオールアメリカン・ユース・オーナー・ミュージシャンズという青少年バンドの指揮者として出演するため初来日した。
 マイアミ大学時代には録音活動もしているが、重要ではない。本当に重要なのはこの間に雑誌『インスツルメンタリスト』に寄稿した「名曲アナリーゼ」のシリーズである。これらは後に『ベーシック・バンド・レパートリー(1980)』『ザ・バンドミュージックⅠ、Ⅱ(1992)』としてまとめられ、インスツルメンタリスト社から出版され、貴重な資料となった。そしてこの間、たくさんのマーチと吹奏楽曲の校訂や出版をした功績も大きい。カール・フィッシャー出版社、ジョン・チャーチ出版社のマーチシリーズは特に重要である。多くの名曲の校訂(特に打楽器パートの校訂)がある。ピアノスコアを3段譜にして、打楽器パートを追加した。より正確に、見やすく、そして指揮をしやすくしたことはフェネル独自の仕事である。
 また、この時期の功績として、吹奏楽曲の研究をレコーディングを通じて示しただけではなく、文字の記録を印刷を通して残したことが挙げられる。言うまでもないことだが、この時期全米各地を客演指揮者としてまわることで正しいウインド・アンサンブルの普及を推し進めた功績も大きい。

第5期
 フェネルの晩年である。この時期はこれまで彼が蒔いた多くの種が実をつけた収穫の時期とも言える。フェネルにとって最も幸福な時期だった。前述した通り、マイアミ時代のフェネルはあまり多くの録音を残していない。唯一1978年4月にテラークレコ-ドから、当時最高の録音技術を用い、ハイファイ・デモンストレーションレコードのシリーズの一環として2枚のLPレコードを録音した。
 クリーヴランド管弦楽団(KWO)の管楽器メンバーを中心に編成した『ザ・クリーヴランド・シンフォニック・ウインズ』がフェネルの得意とするホルストの「吹奏楽のための第1,第2組曲」をメインに録音をした。これが好評で1978年12月に更に1枚マーチアルバムを録音している。マイアミ時代に残っている音源は他には無いと言って良いだろう。KWOでは1981年3月にアルフレッド・リードを迎えコンサート、レコーディングを行い好評を得た。
 そして「次の指揮者としてフェネルを招きたい」と東京佼成ウインドオーケストラ(TKWO)の当時の深瀬マネージャーから私に相談があった。最終的に1982年3月の定期演奏会の客演指揮者として招聘、来日してもらうことになったが、そのために以下の経過があった。1981年4月16日、私が手紙にて打診。5月12日、OKの返事が来る。9月14日、フェネルから詳しい内容の問い合わせが来る。12月1日から5日にかけ、私がフロリダの自宅を訪問し、詳しく打ち合わせをする。12月15日、それに基づき、TKWOマネージャーが詳しい予定を作成し送る。1982年1月10日、フェネルから詳しい返事が来る。1982年3月16日、来日。27日、新宿文化センターにて定期演奏会を初めて指揮した。
 TKWOはフェネルに更に長期の指揮者就任を希望した。当時の鈴木マネージャーからの委嘱で1983年3月23日、私が、翌年1月から1年契約での来日を電話で打診した。24日付けの手紙でOKの返事。10月13日、フェネルから詳しい内容の問い合わせがある(当時フェネルはミシガン州立大学にアーティスト・イン・レジデンスとして勤務していた)。11月、契約書を取り交わし1984年1月14日に来日。TKWOとの本格的な生活が始まる。
 正式に常任指揮者として活動を始めたフェネルにとって、最もやりがいを感じた仕事は、この優れたプロフェッショナル・バンドと共に思い通りの演奏会と録音ができたことだっただろう。TKWOとの多くの録音はマエストロ・フェネル最後の遺産となった。曲数はイーストマン・ウインド・アンサンブル時代の物をはるかに上回るものだった。この事実はTKWOだけの誇りとなっただけではなく、日本の吹奏楽の誇りと言って良い。また、なんと言ってもフェネルの残してくれた最大の遺産は、録音、定期演奏会、演奏旅行を通して、日本中に吹奏楽の素晴らしさを広め、特に専門家の演奏によって
『吹奏楽がオーケストラと同じレベルで演奏され、鑑賞されるべきだ。』というフェネルの主張を実現したことだろう。また、TKWOをヨーロッパ(1989年7月)、スイス(1993月9月)、台湾(2000年12月)の演奏旅行に導き、その実力を世界に知らしめた。2002年12月、念願のアメリカ演奏旅行(ミッドウェスト・クリニック出演)で最後を飾ることができたのはきっとフェネルの本望であったに違いない。フェネルはTKWOを高め、その真価を世界に紹介、更には日本の管楽器音楽の向上に最も功績を残した指揮者であった。彼がその晩年を日本で過ごせたことは日本吹奏楽界に最大の恩恵をもたらしたと言える。2006年から日本のメジャーオーケストラが吹奏楽編成で演奏会を開いていることを知ったら、フェネルはさぞかし喜んでくれることだろう。
 最後に、フェネルは晩年日本以外でも1991年からアメリカでダラス・ウインドを指揮し、彼自身が好きな曲を何枚か録音していることを付け加えておきたい。

 読者の皆様には彼が日本の吹奏楽界に残した偉大な功績をご理解いただけたと思う。併せて彼の性格、人となりも紹介させていただきたかったが、またの機会に改めて書き記そうと思う。

秋山 紀夫【あきやま・としお】公益社団法人・日本吹奏楽協会名誉会長
前ソニー吹奏楽団常任指揮者。現おおみや市民吹奏楽団音楽ディレクター。(社)日本吹奏楽指導者協会名誉会長、(社)全日本吹奏楽連盟名誉会員、アジア・パシフィック吹奏楽指導者協会名誉会長、WASBE(世界吹奏楽会議)名誉会員、浜松市音楽文化名誉顧問、アメリカン・バンド・マスターズ・アソシエーション名誉会員。ソニー吹奏楽団名誉指揮者。

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