Music People vol.47 清水大輔
私が作曲家になろうと思ったきっかけ
1993年、中学校1年生の時、私は「吹奏楽」に出会いました。当初私はなぜか柔道部に入ろうとしていましたが・・担任が音楽の先生ということもあり勧められ何となく入部しました。しかし、それが私の音楽人生の全ての始まりでした。
担当楽器は金管楽器のテューバ。とても大きな楽器だなというのが最初の印象です。初めて演奏したのはスーザの『エル・キャピタン』。躍動するリズムと華やかな旋律に、私は抑えきれない感情の高揚を感じたことを今でも鮮明に覚えています。その後、私は人生初の夏の吹奏楽コンクールを経験しました。演奏曲はスウェアリンジェンの『Blue Ridge Saga』。美しい旋律と感動的な曲の展開に、私は「音楽(吹奏楽)って凄い!!」と思いました。
その後高校でも吹奏楽を続けましたがひとつ悩みがありました。人前で演奏すると極度の緊張で自分の思い通りに吹けないのです。私は音楽がとにかく好きだったので人前に出ずに自分を表現するには・・と考えた末に出会ったのが『作曲』だったのです。無意識にいつも読んでいた様々な作曲家のスコアは私に素晴らしい想像力を与えてくれていたのかもしれません。そして何よりも、中学校の時に初めて聴いた作曲家ジョン・ウィリアムズの作品が私にとてつもなく強い影響を与えてくれました。
作曲を初めてカッコイイと思ったのは私が中学校の時です。ある時文化祭のためにパート紹介の演奏をすることになり、顧問の先生に相談したところ、先生は五線譜を取り出しササッと楽譜を書き始め「はい、これを演奏してみたらどう?」と譜面を渡してくれました。それは有名な曲のアレンジだったのですが「音も出さずに何で楽譜が書けるの?!」と1人でとっても感激していたことが鮮明な印象として残っています。
高校3年生の最後の定期演奏会で、顧問の先生の許しを得て初めて自分が書いた曲を発表しました。なんとも言えない感動と達成感があり作曲は自分に合っているのかも・・と少しだけ感じ始めました。
私は音楽大学へ行くことを決心し親に相談したところ「4年生の大学へのお金は払えない」と言われました。残念ながら短大には作曲学科がなくピアノ専攻で短大に入学しました。しかしこの逆境が更に私の作曲家になりたいという気持ちを大きくさせました。
1999年の夏、無謀にもジョン・ウィリアムズに会いに行こうと決心し必死でバイトをしてタングルウッド音楽祭に行きました。コーディネーターの方のお陰で運良く私はジョン・ウィリアムズに会えたのです!!ガチガチに緊張していましたが、無謀にも当時書いた曲を「見て下さい!!」と渡しました。氏は嫌がることもなく見て下さり、最後のページの五線にさらさらとサインと音符を書いて下さいました。私に渡す時にそっと耳打ちで「私はこれで有名になったよ」と言いました。そこにはスターウォーズの旋律が書かれていたのです!!!私はもう放心状態・・・・しかしこの時、間違いなく「作曲家になろう!!」と決めたのでした。
それからはとにかく書き続けるのみでした。私はとにかく運の良い人間だと思っています。それは本当に様々な素晴らしい方々との出会いばかりだからです。その皆様の支えがあったからこそ今の自分があると確信しています。
最後に、自分が悩んだ時、迷っている時にいつも思い出す恩師の言葉を記しておきます
私はこれからも更に音楽を愛し続けたいと思います。
清水大輔【しみず・だいすけ】 1980年、神奈川県生まれ。2002年に昭和音楽大学短期大学部を卒業。作曲を藤原嘉文氏に師事。 サクソフォーン奏者の福本信太郎氏のための書き下ろし作品をはじめ、航空自衛隊中部航空音楽隊、陸上自衛隊東部方面、中部方面、第6、各音楽隊、海上自衛隊東京、横須賀、舞鶴、佐世保、各音楽隊、ヤマハ吹奏楽団浜松、なにわ<オーケストラル>ウィンズ、大阪市音楽団、日生劇場、シエナ・ウィンドオーケストラなど委嘱作品も多数。 アメリカのシカゴで行われる『ミッドウェスト・クリニック』、WASBE(世界吹奏楽協会)、アメリカ、ヨーロッパで自作品が演奏され、近年ではアジア諸国で自作品演奏会の指揮、初演を行う。 また今までに自作品集も4枚を数え全国発売されている。 21世紀の吹奏楽"響宴"会員。昭和音楽大学非常勤講師。平成28年度 第49回JBA下谷賞受賞。 |