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1.初めて見た吹奏楽団

吹奏楽を愛して ~65年のあゆみ~
(連載100回)

吹奏楽に夢と希望を燃やしながら―――
助安 由吉
(株)エイト社代表取締役
ロケットミュージック(株)顧問
吹奏楽ポップス楽譜の生みの親は服部良一先生と長男の服部克久先生である。
吹奏楽はクラシック中心の世界。
その中に歌謡曲やポップスを入れてバンドの多くの皆さんに喜びを与えられたことが吹奏楽の発展へつながっていく。



①初めて見た吹奏楽団

 (株)ミュージックエイトを作った私は現在80才になります(2015年8月)
 比布中学を卒業した年(1949年)のことです。北海道の旭川市の商工会議所前の石狩川に架かっている旭橋のすぐ近くにたくさんの人が集まっていました。そこを自転車で通りかかった時、音楽が聞こえてきました。私は音楽が大変好きだったので、早速自転車から降りて聞くことにしました。生の音楽は1度も聞いたことがなかったので、感動をもって聞きました。そのバンドは当時の保安隊、現在は自衛隊ですが吹奏楽なのです。目を丸くし、耳をそば立てて真剣になって聞き惚れてしまいました。実際に見る楽器は勿論、音を聞くのも私に取りましては初めてなのです。こんな素晴らしい楽器と音が出るものを今まで見たことも聞いたこともなかったのです。当時は昭和25年位でしたので、テレビはまだ無かった時代です。旭川市に住んでいる人でしたら、大きな街なので生の音楽は聞けたかも知れませんが、私にとっては生の吹奏楽の演奏を聴くのは普通ではあり得ないことでした。

 私は音楽が好きでしたので、中学になってからは、自ら進んで勉強というより音楽について知ろうとし、楽典だけには力を入れて学びました。そのお陰でトランペットやトロンボーン、クラリネットやサックス、テューバなどは知っていましたので、形は判っていましたが、音は全く初めてでした。しかしこの時の初めて見た吹奏楽団がまさか私の将来の仕事の対象になるとは全く思ってもみませんでした。人生とは不思議なものです。もし旭橋を通って旭川商工会議所の前を通らなければ、一生涯、吹奏楽とは関わりが無かったかも知れないからです。何故ならば、それ以後、管楽器の音や木管楽器など音と共に私の目から離れることがなかったからです。中学を卒業して山に出稼ぎに行き、そのお金でギターを買って独学でメロディを弾く位しかできませんでした。当時は高校に行く人はあまりいませんでした。東園小学校のクラス50名で4名位しか高校に行きませんでした。私の家は貧乏でもあり、農家の長男でもあったので高校など行きたくても行けない状況でした。そのためもあってか、吹奏楽を見た時から私の夢は膨らんでいったのです。いつか自分も楽器を吹けるようになりたい。という思いが絶えず心の中に入っていて夢にまで見るようになったのです。

 私にとりましては、その頃から"吹奏楽は私であり、私は吹奏楽である"と思い込むようになっていったのです。これはとても不思議なことです。私は小さい時から、服部良一先生の作った「青い山脈」や「雨のブルース」などを口ずさんでいました。その後、この服部良一先生と長男の克久先生の許可がなければ、(株)ミュージックエイトという吹奏楽の出版社など作れなかったことは間違いがありません。

 19才の時、演歌の作曲家になるために家出後、両親の許可を得て上京したのですが、東京で生活することはとても大変で、音楽の勉強をする機会は全くありませんでした。転々と職を変え、生きていくための仕事が優先で、何もかも上手くいかない生活が続いていくのです。いつの間にか吹奏楽の夢も消えてしまっていました。更には演歌の作曲家になる夢もどこかへ吹っ飛んでしまいました。そんな中、代々木のラブホテルの風呂炊きをしていた時に、映画「グラン・ミラー物語」を観たのです。この映画は私を救ってくれたものになりました。何故ならば、グレン・ミラーの「ムーンライト・セレナーデ」の音の魅力のとりこになってしまったからです。こんな音の出る曲を作ってみたいと、今度は方向転換をしてしまったのです。「ムーンライト・セレナーデ」のサウンドは、その後に、服部克久先生の下で仕事をした時、ビッグバンドを編曲する機会があり、そこで初めて密集和音を使っての同じサウンドを作ることができました。これはもっともっと先のことですが、私の夢を支えてくれたのは東京での修行時代での「グレン・ミラー物語」の映画が最高のものでした。もうひとつ、「グレン・ミラー物語」の中でグレン・ミラーが空軍に入り、観閲式の吹奏楽を指揮している時、今迄のように変り映えのしない曲で兵隊達が行進をしていました。その時グレン・ミラーが「セントルイス・ブルース・マーチ」に曲を変えたのです。曲調はスイング調なので、軍隊の行進はいきいきとして明るい行進で、皆が笑顔になりました。これもずっとあとになりますが、私が自衛隊の音楽隊当時、クラシックばかりの演奏曲目の中に、演歌の「南国土佐を後にして」の曲を入れることに繋がっていくのです。このように若い時の体験が、将来の出来事を結び付いていくことがとても不思議です。まだ中学を卒業したばかりの16才の頃の初めて見た吹奏楽団の出来事は、やはり強力なインパクトがあり、私の人生の方向性を決めてくれたのではないか、と思うのです。しばらくは農作業をしながらも、吹奏楽団が並んでいるところまで思い浮かんでいました。そしてその度毎に音も聴こえてくるようになったのです。

 私が初めて吹奏楽団を見たことは偶然のような形ですが、偶然ではなく見るべくして見たのではないかと思うのです。通りすがりの出来事なのでもし一寸でもタイミングが合わなければ、見ることも聴くことも無かったことは事実です。そんな偶然が、その後の私の人生に夢と希望を与え、力を与えてくれたのです。夢は大きな力となり、希望も力そのものです。それからあと、農作業をしていても自分が楽器を吹いているような錯覚をするようになっていくからです。吹奏楽はまさに奇跡を呼び込んでくれた私の幸福路線でもあったのです。




 
助安由吉の作品集
音源ダウンロード
演歌 お父さんありがとう(歌:瞳 勝也)
お母さんありがとう(歌:若林 千恵子)
(1966年・31才の時)
歌謡曲 わが道(歌:助安 哲弥)
生まれた理由(歌:助安 哲弥)
(1994年・59才の時)
吹奏楽 愛のはばたき
ミドナイト イン トウキョウ
真珠採りの歌
駅馬車
(演奏:海上自衛隊東京音楽隊)
(1960年・25才の時)
環境詩 緑したたる地球を守ろう(ナレーション)
緑したたる地球を守ろう(英語版のナレーション)
(1971年・36才の時)

吹奏楽が生きる力となり 夢と希望となる
吹奏楽は皆さまの体であり、皆さまの血や肉であり、皆さまの精神であり、永遠に尽きることのない魂たちです。
クラシックが中心の吹奏楽界の中で、歌謡曲やポピュラーソングを入れ、このように大発展ができたのは、バンドの皆さまのお力のおかげです。
全国のバンドの皆さまに心からありがとうと言う以外に言葉はありません。


助安 由吉

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